2010年5月7日金曜日

わが心の歌舞伎座。「仮編集作業中」

 映画「わが心の歌舞伎座」の仮編集がスタート。
キャメラマンはこの段階ではほとんど用なし。単なる見学者か野次馬程度。しかしプロデューサと監督はこれからが本当に忙しくなる。肉体的というよりも精神的に。

 十河監督。これから暑くなるので冷房はありがたいが、冷風の直撃は辛いものです。


 プロデューサの貞綱氏も様々な交渉事が始まるので準備がたいへん。

 マッサージチェアが登場!気分転換には最高。
この「わが心の歌舞伎座」制作室には、マッサージチェア程度では治らない、困難な肉体疲労時には、専門の鍼灸・指圧 上馬治療院の田中ゆき院長が駆けつけて治療に…。
苦渋の編集作業には鍼灸・指圧がピッタリだと云うことがスタッフの共通認識になった。

2010年5月6日木曜日

歌舞伎座 最後の日

心配された混乱もなく、カメラの前をサッパリした表情で役者さん達が歌舞伎座を去っていった。







すり減った入口の敷居。
どれだけの人が出入りしただろう





約一年間ほど通った歌舞伎座。
素晴らしい経験だったし、素晴らしい人たちと出会った


2010年5月4日火曜日

歌舞伎座にて。「鯛やき」


東銀座で有名な焼物は、銀ダコのたこ焼きと歌舞伎座の鯛焼き。
両方のお店には撮影中にどれだけお世話になったか…。


歌舞伎座の鯛焼きは、一階のロビーに店舗を移動してからというもの売れに売れている。
それは当り前、なにしろ歌舞伎座内に一軒しかないので、全くの独占状態。「泳げ鯛焼きくん」を知っている世代がお客の中核を形成する最近では、幕間に長蛇の列。


なんと言っても紅白の白玉が入っているのが特徴。


よく考えると、不思議な食べ物ではある……。

2010年5月2日日曜日

歌舞伎座にて。



この日の撮影は中村勘三郎丈。
クリント・イーストウッド監督が開発に関わったという防振装置での撮影。今までの防振装置の発展型で機構がとてもユニーク。






オペレータは超ベテラン。
収録された映像は引き込まれるような静けさでの移動。
これほど魅力的な映像なら、これを担いで富士登山を撮影したら美しいだろうと思う。(笑)


貴賓室にて。





撮影中も舞台では大道具さん達が活躍。
短い時間で舞台を構築する技には驚愕するばかり。
一人一人が自分の仕事を理解しているだけでなく、仲間の仕事も視野に入れて、先を読んでの動きは見ていて気持ちがいい。この”俊敏な群”に憧れて若者は集まると思う。


美貌なれ歌舞伎座。


2010年4月17日土曜日

世界遺産にて。デジタルカメラ

 世界遺産の撮影前には必ずロケハンをするのだが、予行演習もかねて、印象に残った風景や場所をカメラで撮っておく。ロケハンにはそれほど時間を費やせないので検討資料としての写真をたくさん撮る。


このカメラは欧州方面でよく働いたが……


サハラ砂漠の砂が原因で動かなくなった。

リコーはカメラの機構を含めて不思議なデザインのカメラが多い。


数台のリコーを酷使の末に潰してしまい、ふたたびキャノンに。
このカメラは東南アジア方面でよく働いた。


壊れたカメラ達。
裸でポケットに入れて持歩くのでレンズにキズ、内部には砂が入って万事休す。
この種のカメラはボールペンと原稿用紙感覚でいいと思うが……。


このキャノンは南米から欧州と動き回り、ヴェネチアでは水没もした。
今年の春、桜が満開の時に突然、動かなくなった。


 写真機は記憶を置き換える不思議な機械。
そのメカニズムとレンズを微妙に組み合わせた設計には敬服するけれど、時間を画像として凝縮したり、想いを写真として表現することができる機械。この「表現する」が僕は素晴らしいと思う。

写真の世界で育ち、今は動く映像を職業にしている。どちらの道に進めばいいのか迷ったけれど、動画のなかに写真的なるものを発見してゾクゾクすることがある。両方の勉強ができてほんとうに良かったと思う。これからもカメラは潰すだろが写真は一生撮り続けるだろう。

2010年4月10日土曜日

歌舞伎座にて。「写真家 岡本哲郎」


岡本氏は篠山紀信先生のお弟子さん。
僕たちのようなキャメラマンではなく、写真家に共通の心の奥底から真面目。


だいたい、三脚を設置する場所を見れば、どれだけ真面目か伺える。


この日は薄暮の歌舞伎座狙い。
いくら広角レンズで狙うからといって、危ないから、あまり端っこに行かないように!


ブルーモーメントのなかで、歌舞伎座を見つめる岡本ちゃんの後ろ姿は、見習うべきものだった。

2010年3月12日金曜日

世界遺産にて。「リトアニア Dandelion Way」


 「タンポポの道」は自宅から駅までのリハビリのための道だった。
退院当初、ふらつきながら駅まで歩いた道である。







三月も中旬だというのにまだまだ季節は不安定で、
三寒四温とはいえ
寒さと風の強さには少々まいっていた。
吹き荒れる春風もやがては薫風に成長するのだけれど、
その荒れ様は、
ただ大人になるのを嫌がる少年の最後の抵抗のようでもあった。




しかし退院したばかりの僕にはひどく応えた。
こんな風のなかで生きていけるのだろうかとさえ思った。
「病上がりの生き物」なんて、ひ弱な存在で、
人工都市や薬という防御装置がない大自然のなかだったら、
僕は一瞬にして肉食動物の餌か植物の肥やしになっていると思う。




「タンポポロード」
特別に花や自然が好きだという訳ではない。
リハビリのためにタンポポを避けながら歩く、
これがこの道を選んだ理由であった。

耳朶を過ぎる風はずいぶんと和らいで、歩く早さもあがってきた。
もう季節は大人になり始めたのかも知れない。
これぐらいの季節なら
薬の力をかりてでも生きていけるのかも知れないと思う。





振り返るとたくさんのタンポポが風に揺れていた。
無数の黄色い花と綿帽子、
その一つ一つが僕の忘れてしまった想いでに見えた。



リトアニアの遠くまで続くなだらかな丘陵。
風が渡っていくのがみえる草原には、遥かな水平線までタンポポが揺れている。
ファインダーを覗いたほんの瞬間、少し前の病んでいた自分を想いだした………。