2009年10月23日金曜日

新幹線のお弁当

 出張で一番多い路線は東京、京都、大阪間。この移動時間がなかなかよくて居眠り、読書、打合せに最適の時間。で、列車の旅にはお弁当。21年間もの往復を繰り返し数々の失敗を乗り越え、著名な料理研究家、評論家の方々の意見を参考にさせて頂いたその結論は!

東京駅出発の場合は「まい泉の玉手箱」あるいは崎陽軒の「しゅうまい弁当」


崎陽軒シュウマイ弁当。
しゅうまいの柔らかさとタケノコ、かたい魚が緊張と緩和を演出している。

 新大阪出発の場合は水了軒の「汽車弁当」「大阪弁VS博多弁当」「八角弁当」「味遊楽」。仕事が上手くいった時には「赤飯弁当」とさすがに食の大阪、食い倒れの大阪。どれを食べても美味しいのでお弁当売場で迷いに迷う。

 京都駅出発の場合は雷が鳴っても、一電車飛ばしても絶対に「萩の家」のお弁当!
萩の家のお弁当を買うのは大変なので早めに駅に行かねばならない。というのは「萩の家」弁当売場はホームの一番端、博多寄りにあるから。
急いで新幹線に乗らねばならない時には、ほんとうにJRの悪意を感じる。コンビニみたいなJダイナーの弁当と比べたら味は月とスッポン。その差が歴然としているからJRは「萩の家」の売場をあんなホームの端に追いやったのだ。21世紀出陣弁当なんて勇ましい弁当を発売するなら、萩の家弁当と同じ売場で堂々と勝負してみろぃ!ぼろ負けは目に見えておる。客の事を一番に考えてみろ。旧国鉄!

 
で、スタッフだけの移動ではこの弁当以外に選択の余地はない。



世界に誇れる精進弁当。



高齢のプロデュサー、ディレクターが同乗の場合は鮎と鯛が登場。



若者スタッフの編成では、追求するのはボリュームのみ。


ゲストやレポーターの同乗ではかなり豪華になるのです。

京都の場合、かなり有名な料亭が注文に応じて、特別なお弁当を京都駅のホームまで届けて頂けるそうです。しかし一見さんは無理です。

2009年10月21日水曜日

日だまり。

‥…酒蔵と酒蔵の間にある金木犀の影に父の籐椅子が置いてあり、
午后の風が通り抜けるその辺りは
たゆたうような日だまりであった‥…。
〜昭和の面影より〜



 南アメリカのパタゴニアはそろそろ寒さも緩み始めたかな。冬のあいだ、大きさが四国ほどもある牧場に一人残り、家畜を見回るパイサーノ(ガウチョ)は元気だろうか。彼が信頼するのは無線と「キャピタン」と呼ばれる犬だけ。ボーダーコリーの「キャピタン」、観察力は鋭く頭脳明晰。パイサーノの動きをじっと見て、巧みに牛を追い込んでいく。
 朝の仕事が終わり、ポプラ並木に初夏の風が通り過ぎる午后、パイサーノが独特のストローでマテ茶を飲むころ、馬小屋の日だまりで微睡むのが「キャピタン」にとっては至福のときらしい。
「大草原にぽつんと男一人、犬一匹。」素晴らしい風景だと思う。

 澄んだメジロの鳴き声のする方を見ると、日だまりにラズベリーが実っていた。
最近は雀やメジロ、時々は鶯もやって来るなと思っていたが、どうもこの実を食べにきているようだ。台風にもよく堪えたラズベリーも、安心したように一気にたわわな実をつけていた。”ああ植物はなんと素直に、植えられた環境に耐えて実をつけるのだろうか”そう思うと同時に実を食べていた。美味しい、ラズベリーの甘酸っぱい香りだった。




 落花生もオリーブの実も収穫した。セージ、タイム、ミント。月桂樹にローズマリーも風に揺れている。
もうすぐ、錦繍の終わりにスモークが待っているぞ。

2009年10月9日金曜日

図書館の人々。

 子供の頃から図書館という空間が好きだった。
古びたインクと紙の匂いも懐かしく、ゆったり流れる風は祈りが終わったイスラム寺院に似ていて心地よい。
歴史関係の棚では太古のカンブリア紀から明治時代まで、科学の棚では原子核からカブトムシまで、縦横無尽に自由自在に本のなかで遊んでいられた。

本に囲まれていると少々暖かい。西 周はそれを“知恵の温もり”と形容していた。できるなら散らかしたり、こぼしたりしないから、お菓子と珈琲が飲めるといいのだが……30歳以上の人だけとか……無理か……。




 京都にある日本文化研究センターの巨大な円形図書館は素晴らしかったし、カリフォルニア州のサリナスにある図書館もスタインベックを郷土の誇りとして大切に思っている姿勢がよかった。

滋賀県八日市市立図書館の子供コーナーにはこんな張り紙がしてある。
「図書館には本が並んで眠っています。そっと起こして下さいね。」
八日市図書館の司書さん達は本を借りにきた人に「ありがとうございます。」と挨拶する。図書館としての市民サービスを熟考し理解している尊敬すべき人々だ。それに比べれば紅衛兵のような顔をして市民を見下す吹田市の図書館とは大違い。



 会社設立当初の主たる仕事はテレビ番組の撮影。しかし事件や事故を追いかけたり、芸能人を追回すワイドショーの仕事は意識して避けてきた。昭和から平成に変わる頃の日本では凄まじい事件や事故が頻発し、特に大阪は事件が多かったように思う。当時は各局でお昼のワイドショーが花盛り。マイクを片手に走るレポーター、カメラを担いだキャメラマン、カメアシと呼ばれる撮影助手、それに音声マン。この4人編成の撮影クルーが街に溢れかえっていた。ワイドショーを制作するのは主に東京キー局で、地方取材は地元の撮影専門プロダクションに発注される。
 事件が発生した時のキー局からの発注は凄まじく、一日に5クルーの発注もあったとかで、このワイドショー対応を含めて1000万を超える売り上げを計上していた会社もあり、撮影会社間の激烈な競争やダンピングの嵐が吹き荒れていた。



 放送局の重役から、ワイドショーの仕事をすれば次の月末には局から金が振り込まれる。東京キー局の幹部を全部紹介するから、会社の経営を考えて発注を受けろと涙が出そうなご教示も頂いた。



 師走の街を狂ったようにパトカーが走り、その後を報道の車が追いかけ、テレビクルーが走っていく現場を僕は横目で見ながら会社に急ぐ。当座には40000円の預金しかなく、会社のことを考えると喉から手、いや血が出るほど仕事が欲しかった。それでもワイドショーの仕事を避けたのは、この仕事はキャメラマンを駄目にすると直感したからだった。
 しかし経営は苦しい。月末の帳簿や請求書を見るたびに、何度も「志」を葬ろうと思った。そんな極貧のオブザアイが生き延びることができたのは、日本図書館協会から発注された「図書館の人々」というドキュメンタリーの制作だった。「図書館の人々」こそ、オブザアイが制作会社に舵を切るきっかけになったドキュメンタリーだった。