2010年11月29日月曜日

久々の時間。


海外取材から帰った日の夜は一番、ホッとする時間。


時差ボケもヨーロッパからだと時差が約7時間で、これはなんとか思考回路で乗り越えられる。しかしこれが日付変更線を越えると、どうした訳か1週間は調子が悪い。



これが南米だとこれは始末が悪い。
北米で一泊すればいいのだけれど、そんな余裕は許されない。
例えばサンパウロへ行く場合の気分は、太平洋を飛んで、シアトルでコーラを買って、
直ぐに東京に帰るようなもの。これが結構な辛さなのである。



往路は闘いの前なのでまだいいのだが………
チリやアルゼンチンなら、サンパウロからさらに飛ばねばならない。だいたい帰りも同じコースなのだが、これが辛い。成田に着くと一瞬、魂が抜けたようになる。
そうそう、パンパやパタゴニアの近くを飛ぶ場合は、アンデスは勿論、風景が美しいので、窓際の席にするとよい。(笑)





部屋の照明は一灯だけにして、パンとチーズ、珈琲だけの夕食をとるのが身体にも気持ちにもいいと思う。



京都、和久傳さんの文集が届いていた。
僕はこの文集の宮本 輝氏の連載がたまらなく好きで、読んでいると京都の街の石ころまで目に浮かぶ。文章というのは結構な「精神の薬」だと思う。




2010年11月28日日曜日

暮秋。


街の何処にでもあるような小さな公園。
出勤途中に近道で横切る程度の、それほど印象に残る公園でもないのだけれど、雨上がりの今日はハッとする光景だった。







世界遺産の撮影が紅葉の時季に重なることは余りないが、北、南半球を行き来するので機会は多い。ニュージーランドの紅葉は単色で清楚だった。ケベックのそれは上品な彩りだった。京都、高雄は織りなす錦繍だった。
そう云えば7年ほど前、ベルサイユ宮殿で拾った栃の実がポロリと旅行鞄から出てきた。とっくに死んでいるだろうとは思ったが、取合えず植えておいた……。
この夏、植木屋さんが呼ぶので行ってみると、栃が芽を出して1mほどに成長していた……。
僕はアッと言う間に、記憶のなかにあるベルサイユ宮殿の庭に立っていた。

2010年11月27日土曜日

左隅。「左隅の小さなギャラリー」


東京オフィスには京都の大文字のように、右と左の隅に小さなギャラリーがあります。





晴れた日に、ふっと気がつくと窓からの光が日光写真を見せてくれます。この16時ごろの日光写真をしばらく眺めるのが密かな楽しみ。



移ろう陰を追っていると、決まって子供の頃に日光写真で遊んだ風景が、家に壁の色、ズック靴の質感、柘榴の赤い実、赤胴鈴之助のくりくり目玉まで、次々に想いでの引出しが開いてくるのです。



鳥山さんの手書きの楽譜。



オブザアイは会社を挙げて鳥山雄司氏のファン。
小山薫堂氏と開催した、東京オフィスのオープニングパーティーで鳥山さんが書かれた進行コード。
砂と濃紺の空しかない茫漠たる砂漠で、何をどう撮影したらいいのか迷ったときに、鳥山さんの音楽にどれだけ助けられたことか……。
世界遺産のオープニング曲、Song of lifeが迷った僕たちに出口を指し示してくれた……。

2010年11月17日水曜日

北海道にて。



久々の札幌。
その巨大な都市への変貌ぶりに呆然。

どこかに北米大陸の巨大都市のような匂いがしていた。
巧く計画すれば、東京とは違う素晴らしい都になると思う。
予定通り、農学校の時計台とテレビ塔から札幌の全景を撮影。



海の幸丼


ネオンで飾られた北海市場。それでも何となく寂しい風情が…。
横丁からトランクを持った石川啄木が歩いてきても違和感はない町並み。

それにしても感動がない。見すぎた知りすぎた。
テレビのバラエティで…。

昔は北海道の食べ物にはちょっとした憧れがあったが…。
今はウニやイクラ、貝や魚を前にしても感動がない。
ラーメン横丁のラーメンも……。




2010年11月15日月曜日

長崎にて。


久しぶりの長崎は雨。
眼鏡橋もオランダ坂も濡れていました。



明日は東京に戻って、その足で札幌に。

2010年11月13日土曜日

世界遺産にて。「琵琶国の五将軍」


ラクダの隊商達が、東方から何日もの旅をして、高価な絹や白磁の壷を持ち帰っていた頃の遠い遠い昔のお話し……

巨大なタクラマカン砂漠がようやく終わる所に「琵琶守国」がありました。楽器の琵琶が生まれた国としても有名ですが、遥かな西方の都市、ローマにも聞こえた勇猛な五人の剣士がいました。
五人は優れた剣の達人でしたが、なかでも一番と噂された「毘魯将軍」は剣術ばかりではなく、人々の想像を超えた奇抜な作戦を用いて敵を打ち破っていました。連戦連勝の5剣士は琵琶国の人々から大歓迎され、その噂を聞いた辺境の国々は次々と琵琶国と同盟を結び忠誠を誓いました。
やがて、毘魯将軍の武勇を知ったローマの皇帝からも毎年のように同盟を求めて、使者が尋ねてくるほど、西中央アジアでは強大な国になりました。

しかし、面白くないのは残りの剣士達です。自分たちも闘いの場をくぐり抜けてきた自負もあって、毘魯将軍だけが注目されるのは、なんとも腹立たしいことでした。
表面的には一枚岩に見える5剣士も、その裏側では権謀術数が渦巻き始めていました。
毘魯将軍がいない所では誇張と虚実を加えて誹謗し、当人がいる場では賞賛を口にしました。しかし人の口に戸は立てられないものです。そのことはやがて毘魯将軍の耳にも入るようになりましたが、たとえ根も葉もない作り話を流されても、勇猛で知性あふれる毘魯将軍は動じることもなく、相変わらず闘いに明け暮れ、物凄い勢いで反抗的な国々を平定して行きました。

時がたち、剣士達を今日迄育てた偉大な国王が不治の病で世を去ると、あれほど堅固だった琵琶国が揺らぎ始めます。五人の将軍は自分達の任地に散って攻めてくる敵を打ち破っていましたが、ある時、安寧という、それぞれの将軍達に武器を売り歩いている老商人が毘魯将軍に、「次の満月の夜に開催される軍議の場で将軍を暗殺する計画がある」ことを伝えました。老商人安寧と毘魯将軍の父親は、その昔、一緒に戦った戦友でした。しかし仲間を信じる毘魯将軍は、その言葉を意にも介さず、軍議に出かけていき、浴びるように酒を飲まされ、ぐっすりと寝ているところを、あっけなく殺されてしまいました。

「毘魯将軍死す!」その噂を聞いた周りの国々は徐々に琵琶国に反抗しはじめました。最初は毘魯将軍が育てた優秀な戦士が敵を追い散らしていましたが、その戦士たちも保守的な四人の将軍の無能さに失望して、国を去って行きました。
ある満月の夜、琵琶国は突然、姜曽爾国に急襲され、あっという間に占領されてしまいます。姜曽爾国はかって琵琶国に固い忠誠を誓った国でした。捕まった四人の将軍は、
首を刎ねられる前に、なぜこの国を襲ったのかと聞きました。姜曽爾国の旬駿将軍は答えました。「お前たちは自分こそが最強の将軍と思っているが、琵琶国を恐れていたのは毘魯将軍がいたからだ。あの将軍と兵士たちが居なくなった国など、赤子の手をひねるより簡単だ。お前たちは彼の強さを自分の強さと勘違いしていただけだ。毘魯将軍は最強の将軍だった、彼のいないこの国は、もう決して立上がれない。」と涙を流して話しました。
四人の将軍の首は次の満月まで廃墟に曝されたという。






2010年11月12日金曜日

16時33分の光。



東京タワー側の窓から差し込む光が素晴らしい。
特に夏が終わり、秋に差しかかった季節の光は、まだ夏の雄々しさが残っているけれど、仕方なく老境に旅立つ男のような光。
この光を見るとヴェネチアで出会った海の男を想いだす。







カメラのない時代に「光の移ろひ」を肉眼で捉えて、キャンバスに表現した人たちが確かにいたのだ。光だけではなく波や吹き渡る風も……ある大学の授業で、絵画の延長線上に写真があると話していたキャメラマンがいたけれど、それは絵画と写真にたいして酷く失礼で乱暴な話しだと思う。この先生にオルセー美術館の保管庫を見ていただきたいものだ……。




撮影機材は密閉した保管庫ではカビが発生しやすいとのことで、本棚の上に並べている。



当然、撮影部で育ったので機材の管理は軍隊のように叩き込まれたけれど、だからどうなんでしょうかね……と思ってしまう。