2010年12月19日日曜日

わが心の歌舞伎座。


東銀座の東劇に「わが心の歌舞伎座」の巨大な看板があがる。









2011年1月15日封切り。

2010年11月29日月曜日

久々の時間。


海外取材から帰った日の夜は一番、ホッとする時間。


時差ボケもヨーロッパからだと時差が約7時間で、これはなんとか思考回路で乗り越えられる。しかしこれが日付変更線を越えると、どうした訳か1週間は調子が悪い。



これが南米だとこれは始末が悪い。
北米で一泊すればいいのだけれど、そんな余裕は許されない。
例えばサンパウロへ行く場合の気分は、太平洋を飛んで、シアトルでコーラを買って、
直ぐに東京に帰るようなもの。これが結構な辛さなのである。



往路は闘いの前なのでまだいいのだが………
チリやアルゼンチンなら、サンパウロからさらに飛ばねばならない。だいたい帰りも同じコースなのだが、これが辛い。成田に着くと一瞬、魂が抜けたようになる。
そうそう、パンパやパタゴニアの近くを飛ぶ場合は、アンデスは勿論、風景が美しいので、窓際の席にするとよい。(笑)





部屋の照明は一灯だけにして、パンとチーズ、珈琲だけの夕食をとるのが身体にも気持ちにもいいと思う。



京都、和久傳さんの文集が届いていた。
僕はこの文集の宮本 輝氏の連載がたまらなく好きで、読んでいると京都の街の石ころまで目に浮かぶ。文章というのは結構な「精神の薬」だと思う。




2010年11月28日日曜日

暮秋。


街の何処にでもあるような小さな公園。
出勤途中に近道で横切る程度の、それほど印象に残る公園でもないのだけれど、雨上がりの今日はハッとする光景だった。







世界遺産の撮影が紅葉の時季に重なることは余りないが、北、南半球を行き来するので機会は多い。ニュージーランドの紅葉は単色で清楚だった。ケベックのそれは上品な彩りだった。京都、高雄は織りなす錦繍だった。
そう云えば7年ほど前、ベルサイユ宮殿で拾った栃の実がポロリと旅行鞄から出てきた。とっくに死んでいるだろうとは思ったが、取合えず植えておいた……。
この夏、植木屋さんが呼ぶので行ってみると、栃が芽を出して1mほどに成長していた……。
僕はアッと言う間に、記憶のなかにあるベルサイユ宮殿の庭に立っていた。

2010年11月27日土曜日

左隅。「左隅の小さなギャラリー」


東京オフィスには京都の大文字のように、右と左の隅に小さなギャラリーがあります。





晴れた日に、ふっと気がつくと窓からの光が日光写真を見せてくれます。この16時ごろの日光写真をしばらく眺めるのが密かな楽しみ。



移ろう陰を追っていると、決まって子供の頃に日光写真で遊んだ風景が、家に壁の色、ズック靴の質感、柘榴の赤い実、赤胴鈴之助のくりくり目玉まで、次々に想いでの引出しが開いてくるのです。



鳥山さんの手書きの楽譜。



オブザアイは会社を挙げて鳥山雄司氏のファン。
小山薫堂氏と開催した、東京オフィスのオープニングパーティーで鳥山さんが書かれた進行コード。
砂と濃紺の空しかない茫漠たる砂漠で、何をどう撮影したらいいのか迷ったときに、鳥山さんの音楽にどれだけ助けられたことか……。
世界遺産のオープニング曲、Song of lifeが迷った僕たちに出口を指し示してくれた……。

2010年11月17日水曜日

北海道にて。



久々の札幌。
その巨大な都市への変貌ぶりに呆然。

どこかに北米大陸の巨大都市のような匂いがしていた。
巧く計画すれば、東京とは違う素晴らしい都になると思う。
予定通り、農学校の時計台とテレビ塔から札幌の全景を撮影。



海の幸丼


ネオンで飾られた北海市場。それでも何となく寂しい風情が…。
横丁からトランクを持った石川啄木が歩いてきても違和感はない町並み。

それにしても感動がない。見すぎた知りすぎた。
テレビのバラエティで…。

昔は北海道の食べ物にはちょっとした憧れがあったが…。
今はウニやイクラ、貝や魚を前にしても感動がない。
ラーメン横丁のラーメンも……。




2010年11月15日月曜日

長崎にて。


久しぶりの長崎は雨。
眼鏡橋もオランダ坂も濡れていました。



明日は東京に戻って、その足で札幌に。

2010年11月13日土曜日

世界遺産にて。「琵琶国の五将軍」


ラクダの隊商達が、東方から何日もの旅をして、高価な絹や白磁の壷を持ち帰っていた頃の遠い遠い昔のお話し……

巨大なタクラマカン砂漠がようやく終わる所に「琵琶守国」がありました。楽器の琵琶が生まれた国としても有名ですが、遥かな西方の都市、ローマにも聞こえた勇猛な五人の剣士がいました。
五人は優れた剣の達人でしたが、なかでも一番と噂された「毘魯将軍」は剣術ばかりではなく、人々の想像を超えた奇抜な作戦を用いて敵を打ち破っていました。連戦連勝の5剣士は琵琶国の人々から大歓迎され、その噂を聞いた辺境の国々は次々と琵琶国と同盟を結び忠誠を誓いました。
やがて、毘魯将軍の武勇を知ったローマの皇帝からも毎年のように同盟を求めて、使者が尋ねてくるほど、西中央アジアでは強大な国になりました。

しかし、面白くないのは残りの剣士達です。自分たちも闘いの場をくぐり抜けてきた自負もあって、毘魯将軍だけが注目されるのは、なんとも腹立たしいことでした。
表面的には一枚岩に見える5剣士も、その裏側では権謀術数が渦巻き始めていました。
毘魯将軍がいない所では誇張と虚実を加えて誹謗し、当人がいる場では賞賛を口にしました。しかし人の口に戸は立てられないものです。そのことはやがて毘魯将軍の耳にも入るようになりましたが、たとえ根も葉もない作り話を流されても、勇猛で知性あふれる毘魯将軍は動じることもなく、相変わらず闘いに明け暮れ、物凄い勢いで反抗的な国々を平定して行きました。

時がたち、剣士達を今日迄育てた偉大な国王が不治の病で世を去ると、あれほど堅固だった琵琶国が揺らぎ始めます。五人の将軍は自分達の任地に散って攻めてくる敵を打ち破っていましたが、ある時、安寧という、それぞれの将軍達に武器を売り歩いている老商人が毘魯将軍に、「次の満月の夜に開催される軍議の場で将軍を暗殺する計画がある」ことを伝えました。老商人安寧と毘魯将軍の父親は、その昔、一緒に戦った戦友でした。しかし仲間を信じる毘魯将軍は、その言葉を意にも介さず、軍議に出かけていき、浴びるように酒を飲まされ、ぐっすりと寝ているところを、あっけなく殺されてしまいました。

「毘魯将軍死す!」その噂を聞いた周りの国々は徐々に琵琶国に反抗しはじめました。最初は毘魯将軍が育てた優秀な戦士が敵を追い散らしていましたが、その戦士たちも保守的な四人の将軍の無能さに失望して、国を去って行きました。
ある満月の夜、琵琶国は突然、姜曽爾国に急襲され、あっという間に占領されてしまいます。姜曽爾国はかって琵琶国に固い忠誠を誓った国でした。捕まった四人の将軍は、
首を刎ねられる前に、なぜこの国を襲ったのかと聞きました。姜曽爾国の旬駿将軍は答えました。「お前たちは自分こそが最強の将軍と思っているが、琵琶国を恐れていたのは毘魯将軍がいたからだ。あの将軍と兵士たちが居なくなった国など、赤子の手をひねるより簡単だ。お前たちは彼の強さを自分の強さと勘違いしていただけだ。毘魯将軍は最強の将軍だった、彼のいないこの国は、もう決して立上がれない。」と涙を流して話しました。
四人の将軍の首は次の満月まで廃墟に曝されたという。






2010年11月12日金曜日

16時33分の光。



東京タワー側の窓から差し込む光が素晴らしい。
特に夏が終わり、秋に差しかかった季節の光は、まだ夏の雄々しさが残っているけれど、仕方なく老境に旅立つ男のような光。
この光を見るとヴェネチアで出会った海の男を想いだす。







カメラのない時代に「光の移ろひ」を肉眼で捉えて、キャンバスに表現した人たちが確かにいたのだ。光だけではなく波や吹き渡る風も……ある大学の授業で、絵画の延長線上に写真があると話していたキャメラマンがいたけれど、それは絵画と写真にたいして酷く失礼で乱暴な話しだと思う。この先生にオルセー美術館の保管庫を見ていただきたいものだ……。




撮影機材は密閉した保管庫ではカビが発生しやすいとのことで、本棚の上に並べている。



当然、撮影部で育ったので機材の管理は軍隊のように叩き込まれたけれど、だからどうなんでしょうかね……と思ってしまう。

2010年10月26日火曜日

世界遺産にて。「言の葉」モノリスの群れ




「地上波テレビは

文化装置としての役割を放棄し今や異臭を放っている」

(大山 勝彦)







monolith

モノリスとは建築や彫刻に用いる一枚岩のこと。

旅先にて頂くメール。

異国で読む言葉の意味を、心の引出しに大切に仕舞い込む……。




2010年10月24日日曜日

世界遺産にて。「言の葉」フィレンツェ


「あらゆる新しいこと 美しいこと すばらしいことは

一人の人間の熱狂から始まる」

(萩元 晴彦)



休館日のウフィツィ美術館にて。

ウフィツィとは「オフィス」のこと。
この美術館はメディチ家の仕事場だったのだ!
係の人が数人いるだけのガラ〜ンとした美術館。
あるは、あるは、ダビンチ、ラファエロ、ボッティチェリ……。
心の中でワーワー叫びながら、撮影していたら、
アグリッパの胸像がジロリ……。


旅先にて頂く元報道局長のメール。

異国で読む言葉の意味を、心の引出しに大切に仕舞い込む……。


2010年10月20日水曜日

OBSERAI東京事務所「右隅の小さなギャラリー」


この半坪の空間には小山薫堂氏から頂いた机が一つ。
この机の色が渋くて、仕事に使うのが勿体ないので不定期の展示場になっている。

一見の価値がある、オブザアイ印藤君の展開するアート空間には、時々モビールが吊るしてあったり、飛行機が飛んでいたりするけれど、その片隅で古美術商から買った常滑の壷と、尊敬するリチャード・アベドンの写真集がコジンマリ……。




ただいま骨董を勉強中。といっても自分の好きだと思うものを選んで、骨董商の意見を聞いたり、骨董商が薦める壷や皿を買っているだけ。

この常滑の壷は、骨董商が床の間に置いて何時間も飽かず眺めてはったで〜……と少年の店員さんから話しを聞いたので、そんなに飽きずに眺めていたのなら…と買った思い出の壷。




2010年10月19日火曜日

世界遺産にて。「美貌なれパリ」


ベルリンの壁があった頃、報道関係各社の総局や支局はパリに集中していて、そこを拠点に東欧、アラビア、アフリカ方面に出かけていた。今のようにインターネットや携帯電話はなく、出入国時の通関システィムもウンザリするほど煩雑で、取材が終わってヨレヨレになってヨーロッパ総局に辿り着いたときの、オレンジ色のパリの街灯にどれだけ癒されたろうか。






セーヌ河畔は世界遺産。
河を巡る最近のバトームシュには中国語が追加された。
バトームシュに解説のアナウンスが追加されたということは、経済的に豊かになった証拠だとドライバーのデゥミトリーが言っていた。

昔、アムステルダム国立美術館で撮影しているときに、見学にきていた日本の女学生達が下品に騒がしくて係員に注意されていたが、中国人観光客はその上をいっている。でもオーストラリアのおばさん達もなかなか騒がしい。大阪のおばちゃんに似て、楽しくなる。


やっぱりエフェル塔は素晴らしい。

東京タワーは勿論、日本人の誇りだが、なんと言ってもエッフェル塔はその周囲がよく整備されていて、Longの撮影をするとファインダーには素晴らしい納まり具合。エッフェル塔もそうだが、パリという街は計算された都市計画の見本だ。オスマン知事は偉かった。
これは矮小な私見だが、映像のフレームに心地よく収まる建築はだいたい美しいのだ。

ギャハリーラファイエットデパートの屋根。

ここも素晴らしい。ただ、このアングルを撮影するための場所が女性下着の巨大な売場で、僕はファインダーを覗いているからいいのだけれど、他のスタッフは大変だったですよとコーォディネイターの武井女史が笑っていた。

一階の化粧品売場には資生堂のブースがあって、堂々と世界の高級ブランドと肩を並べていた。日本の店員さんと目が合って小さく挨拶。こんな超激戦区で頑張っているな〜とジーンとなった。ラファイエットデパートの資生堂、率直にカッコ良かった…。

ああ、憧れのルーブル美術館。



おお!ミロのビーナス。

しかし広報のスタッフはたいへんな女性だった。
眼鏡がよく似合う美人だけれど、日本人が嫌いのようだ。
こんな人に出会ったら、スタッフはボ〜と遠くを見ているのに限る。
後は武井さんが話をつける。
フランスでの取材は彼女無しには成立たない。



堂々としたサモトラケのニケ像。

ダビデ像、ピエタ、そしてニケ像を見上げるたびに心が洗われる。
多国籍軍照明チームが煩雑な組立作業を終えるまで、
僕は体育座りで見上げていた。



ベルサイユ宮殿にて。


一生の思い出だった。

ガラ〜ンとした休館日のルーブル美術館を走り回って……楽しかったな……

遅い午後、斜めの光に浮かぶニケ像を今でも想いだす……。


2010年10月18日月曜日

地球儀。「Tabi photo」


 最近の東京事務所には、
BS 日テレで始まった番組、「Tabi photo」のインサートカットを撮影するための地球儀がゴロゴロ。普段の生活ではそれほど登場しない地球儀だけれど、インテリアとしても売れているそうで、国旗が印刷されていたり、山脈が凸凹で表現されている地球儀など……様々な地球儀が売場に並んでいる。僕はうるさくない程度で国名と首都が印刷してある地球儀がいいと思う。




 左が22年前に買った地球儀。
今では驚くほど国名が変わっていて、ちょっとした骨董品。
真中はN35の小山薫堂氏の所蔵品。右にあるのは最新の地球儀。



小山薫堂氏の地球儀と山脈凸凹表現地球儀



22年前の地球儀。
世界遺産にスタッフとして参加することも、
番組で世界を巡ることなど、想像することもできなかった。



アフリカは人類発祥の地、そして野口英世への憧れもあった。



ドイツは東西に分かれていた。
そういえばベルリンの壁、その破片を持っている。



ロシアもソビエト連邦だった。
旧ソビエト連邦の国へ撮影に行ったが、なにもかもがガタガタ。
社会主義のいい加減さにムカムカの連続。

 会社を立ち上げた頃はまったく仕事がない毎日。
ガラ〜ンとした部屋に地球儀だけがポツンと。それを眺めながら「いつの日か、世界を巡らん!」なんてことを考える余裕はゼンゼンなく、ただ仕事のこと、明日のこと、月末の支払いのことばかりを考えていた。

 報道時代の諸先輩、その方達の涙がでるような心遣いもあって、関西の素晴らしさを紹介する番組「近畿は美しく」に参加することができた。しかし大阪の小さな映像業界にもそれなりの縄張りが存在していて、気が滅入るほどの妨害があった。それを押し退ける気力もなく、状況だけを撮影するワイドショーなどやる気は更々ない、と云うよりも、そんな村社会が疎ましくて東京に出ることになった。

 TBSの世界遺産に参加できたのもT氏、O氏の両プロデュサーの推挙だった………著名なクリエィターを育てた資生堂のCMを制作できたのもK重役の働きだった……偉大な人々に支えられてきた。僕は肩書きや氏素性で判断しない「東京」という志を抱く者に寛容な街の存在をいつも忘れない。

2010年9月13日月曜日

打ち合わせ。

 制作会社では頻繁に打ち合わせが行われる。
僕たちの仕事は”小打ち合わせ”の連続で成立っていると言っても過言ではない。

 普段、気にも止めない打ち合わせ。
そっと聞いているとこれは面白い。ある一定の礼儀に則って進行して行く。それはまるで海の波のような……。
聞く人は懐深く、話す人はその人の湾内、奥深くまで押し寄せる。
会議に関する本やアドバイスのほとんどが発言の仕方や内容に終始するが、聞くときの心構えや態度も重要だと思うのだけれど。


 毎日放送の番組撮影での打ち合わせ。
カメラを三脚にセットして、撮影の準備をしているときにフッと見上げると佐藤君がスポンサーや代理店の関係者にプレゼンしていた。その時は確か、佐藤君は入社して半年にも満たない新入社員。その彼女が広告代理店の担当者、放送局の営業部員を含む、男性5+女性1を束ねての堂々のプレゼン……もうオブザアイは安泰……と思った。




 なかなかやるな~多摩美。その堂々としたカッコ良さに僕は呆気にとられて、しばらく眺めていた。
自分が23才の頃はどうだったろう……僕は「完璧に少年だった」。
オブザアイ社員の思わぬ活躍や才能を見たときほど嬉しいものはない。

2010年9月5日日曜日

朝ご飯。


日本海に面した、堀木エリ子女史の別荘にて。
テラスからは朝日と夕日、そして夜には天の川を見ることができる。


普段の努力を知っている「絶対の存在」が人を選んでいるのだと思う。
だからこんな雄大な風景、そして絶景のポイントにショウルームのような別荘を持てるのだ。



朝ご飯。
新鮮な果汁。芳醇なパンとチーズの美味しさが身体の隅々迄、届いて行く。


ご飯を食べたら、日本海の雄、山添氏のヨットで遊弋。


優雅な休日から帰って……一人の朝ご飯。トマトに岩塩だけの質素さ。