2009年6月22日月曜日

尊敬する人々。「中東さん」

「雨の日も風の日も静かに野を歩き、心のなかで手を合わせて草木を摘む。」これが中東さんの日常だ。
謙虚で偉ぶらない、そして自らの考えを押し付けない。今日、いま目の前にある料理が総てで、それが中東さんの目の高さであり、言葉でもある。
そんな映像を撮影したいものだ。





ご飯はほんとに美味しい


あっ!と驚くほどの美味しいメザシ

ある著名人が一六杯御かわりした


こられたお客さんが必ず次回を予約して帰られるので、京都では一番の予約が難しいお店ですが、一度は行くべきです。料理も然ることながら、中東さんに会うために。
料理は人がつくるのですから‥…。テレビ番組も同じか(笑)

2009年6月19日金曜日

世界遺産にて。「リトアニア」

このおじさんの笑顔を見よ、絶対にいい人に決まっているのだ。

(レンズの前枠が脱落して修理ができないらしい。) 

世界遺産の撮影でリトアニアへ。

 ソビエットに併合されていた東欧の暗い国。というイメージとは程遠いカラフルで美しい町。その佇まいは今の京都より数段上品。そんなことを考えながら町並みを撮影していたら、オリンパスペンというカメラを持ったおじさんと目が合った。

 小さなオリンパスペンはある年代には思いで深いカメラ。遠足や修学旅行生のほとんどが持っていた。ハーフサイズなのでフィルムに写るサイズが35mmの半分。このタイプでは世界に誇れるカメラだと思う。もう随分昔のカメラだけれど、国民的写真機だと思う。そのシステムと技術を創り上げたオリンパスは、きっと小型で驚くような画質の”ムービーカメラ”をも開発するだろう。

これからの写真はパチッと写る一枚から選ぶのではなく、膨大な数の動画から一枚を選ぶ時代になる。”情報”を求める人々の欲求は「一枚写真の情報量」では満足せず「情報量の多い動画」が一枚写真を駆逐していくに違いない。

 しかしそんな時代になっても大切なのは、写真や動画が写しとる”情”こそは永遠のものだということ。それを表現できるのはプロフェッショナル性と比例している「写真」と「映画」そして「Web」なのかも知れない。実は映像にあまり関心がない、お笑い芸人ばかり番組、金太郎飴のようなクイズ番組を流しているテレビの役割ではないだろう。

2009年6月6日土曜日

柏餅。

柏餅はよく食べる。
 子供の頃に通院していた歯医者さんは、だらだら坂を下った二本の棕櫚が植わっている大きな家だった。京都風の立派な建物の二階が診察室で、初夏のこの季節には窓が開け放たれて巨大な庭が一望できる。先生の御父上は植物学者だったそうで、ご本人も歯医者ではなく植物の世界に進みたかったと話されていた。だから大きな庭は植物園のように立派なものだった。

 
 診察が終わると先生のお母さんが柏餅をお盆に乗せて二階に上がってこられる。そして”植物園”を見下ろして、柏餅を食べながら先生が植物の話しをして下さる。ウォレスとシンガポール植物園の話しを覚えている。
 僕が幼稚園に上がる前の話し。今から考えると不思議な診察室だった‥…。

2009年6月5日金曜日

軍艦島 「長崎の沖に浮かぶ端島」

 報道番組で「家」日本の住宅問題な〜んてのを企画し、番組構成の柱に長崎県にある端島(通称 軍艦島)の風景を撮影したいとデスクに相談。
すると「それ長崎やから、長崎のローカル局の守備範囲を侵害することになるからヤヤコしいで〜。」との答え。「隠密剣士みたいですね。他府県に行って撮影する時は地元の放送局にいちいち断るんですかね〜?」…。
結局のところ問題は出張旅費で、キャメラマンが番組を企画することなど”前例”がないので処理できない、取材の決定は記者部門から要請があって動くもので、取材要請が決まってもいないのに長崎までの旅費を申請できないと云うことらしい。
あんたが自分の財布から自腹を切るわけでもあるまいし、申請だ、発注書だとお役所みたいな言葉の羅列。前々から管理職諸氏に失望はしていたが、それなら構成を動く映像ではなくモノクロ写真にすればいいのだと考えて「それなら自分でいきますよ〜。」と年休を取った。


 で、もちろん自費で、スチールカメラを持って軍艦島に上陸。
ところが、歩いても20分ぐらいで一周できる島は、1日や2日で撮影できる所ではなく、当然のことだが、番組で表現したい現代の住宅問題を象徴する為の、導入部や柱としてはめ込めるほど軍艦島とその歴史はそれほど単純なものではなかった。

明治時代後期の端島

 今でも思いだすのは初めて見た人のいない街の恐ろしさ。巨大なアパート群、崩れかかった映画館、散乱した書類。一匹の犬と猫以外に人は誰もいない。風の通り過ぎる音以外は物音もしない、錆びついた島の風景に言葉を失って呆然と立っていた。

病院のレントゲン室

小学校校庭に置き去られた三輪車

古いテレビもそのままに


 本当にテレビ番組の企画を考えていたのだろうか。
正直に云うと報道の現場から逃避したかっただけで、究極の場所を求めていたのかも知れない。結局は番組などはどうでも良くなって、自力で写真展を開こう決心した。
これがスタッフキャメラマンを辞めようと考えた最初のキッカケだったかも知れない。


 軍艦島は舟から撮影した写真は沢山あるのだが俯瞰の写真がない。そこで毎日新聞社航空部の友人に相談したところ、大村空港に有名なパイロットがおられると連絡を取ってくれた。
空からの機材はセスナでお願いし、今までの経緯をお話しすると「大村から軍艦島まで往復すると12万は必要だろう、だから全体の時間を短縮すればいいのだ。任せろ!」とT氏は力強い。いったいどのような飛び方をしたのかは以下の通り。
T氏が有名な零戦パイロット故坂井三郎氏の後輩で、ご自身も太平洋戦争ではエースだったということ。とても構図を決めて撮影などしていられなかったこと。空撮では絶対に酔わない僕が不覚にも気分が悪くなったこと。T氏にとってセスナという飛行機は、50ccのバイクみたいなものだということ。そして空撮の費用が¥57,000-だったということ。セスナから降りた時はフラフラだった……。

写真展の案内葉書。

 振り返ると僕はいつの間にかこんなに遠くまで来てしまった。
人ごみのなかで軍艦島のことをふと想いだしてニヤッとすことがある。無人の軍艦は今日も長崎沖の海を航海中。僕はヨーソロ!と小さな声で叫ぶ。

2009年6月4日木曜日

富士山。

ある番組の撮影で山梨県側から富士山を撮影することになった。

 山梨県の小佐手は父の生まれ育ったところ。
葡萄の丘にある一本松はヨチヨチ歩きの叔母を父がくくりつけて遊んでいたところ。
よじ登って得意になっていた神社の鳥居も辛うじて現存。父が子供の頃には日本中に”普通の悪戯少年”が走り回っていたそうだ。
 山梨県には海がないので新鮮な魚を食べることは余りできなかったのか、福井生まれの母と違ってお寿司や蟹は苦手だったようだ。父の好きな食べ物は「ニシンと茄の煮物」。実は僕も好きなのだ。

 東京の飯田橋で小さな事業を興していた兄を頼って上京したのが16歳の時。雄大な富士山が車窓の枠から消えるまで見ていたという。
 水泳は専ら河で泳いでいたが、海を知らなかった父は兵役で満州に送られたが、その時に輸送船から見た海と大浪には驚いたという。
 その頃、誰でも簡単にはできなかった写真の技術を学校で習得していた父は、軍隊では超優遇されたらしい。当時は偵察に行った地形や、敵情を口頭で報告するのだが、父は敵地の写真を添えて報告したので、中隊長はえらく喜んで司令部に報告したら、今度は中隊ごと優遇され、戦友達も父にたいする扱いは破格だったそうだ。”芸は身を助ける”とはこのこと。

 満州で除隊になった父が舞鶴から大阪経由で東京に帰る時に、夕陽のなかで見た紅い富士は特別の輝きを放っていたという。そんな特別な富士山をもう一度見たのは1945年8月15日だった。復員した兵隊は異口同音にその当時の富士山は特別だったと話す。人の気持ちで風景の見え方は変わるのだろうか。しかしこうも言える。富士山があなた達を見ていのだとも‥…。

 撮影しながら、父の記憶にある富士山を見たいと強く思った。

2009年6月2日火曜日

有楽町 電気ビルのBARで。

「最近は海外に撮影いってるのか?」
「う〜ん、以前に比べると少なくなったかな。特に今年に入ってから番組全般に言えるかな。」
「そっちはテレビの仕事どうなの?」
「ぐ〜と減った。減ったというより意識的に減らしてるかな。」
「どうしてよ?」
「テレビ局の志が希薄になってきたからね。この前、放送局を定年した人とメシ食って、そんなことを話してたら、”それはテレビ局が人を育ててこなかったツケだな”って言うから、思わずビシソワーズを吹き出しそうだったよ(笑)。育ててこなかったのはオマエだろう!って‥…。(笑い)」


「しかしそんなことは関係ないでしょ。自分たちの番組枠を持てばいいじゃないか。」
「それはそうなんだけど、スポンサーを探して企画を局に持ち込んでも別に感謝されるわけでもない。その分、ギャラがいいわけでもない。スポンサーとテレビ局の間に代理店がはいる構図だから。」
「代理店から局に金が払われるからね。」


「そうそうスポンサーのお金は代理店とテレビ局を通ると吸い取られて、制作プロダクションに降りてくる頃には雀の涙程度。これで番組制作費と利益を出すのは大変なことだよ。企画とスポンサーは自分たちが持ち込んでだよ‥…。海外取材が主な番組なんて、スポンサーが出してる金はビックリするほど凄い額なんだ。それが制作費というか番組に使えない。こんな構図がいつまで続くのかね‥…。」


「億単位、何十億単位か?」
「それはよほど大きな番組だな。(笑)でも実際に現場で使えるお金はヘエ〜と言うほど。だから空撮や特殊な機材も潤沢に使えない。贅沢は言わないが、ここ一番という時に”取りたい欲求”を捨てるそうだよ。映像立国なんてよく言うぜ。しんどいよね〜そんな辛い思いをしながらやってんだ。」
「最近のテレビ番組、制作費ないのが分かるよ。ここにきてNHKの底力を感じるよね〜。」
「民放地方局のドラマなんてチンケなもんだぜ。」
「経費の面で、とにかくプロダクションの切り離しとテレビ離れは凄まじい勢いなんだぜ。テレビはニュースとお笑いでいいのかもね。」
「それもそうかな〜。番組がテレビ局で放送されたら、その番組はライブラリーとかに保管されて二度とこの世には表れないものな〜。NHKは別のようだけれど」。


「俺たちがペエペエの頃は楽しかったけどね。テレビ局ってクリエイティブだったよね。もうテレビ局は変わってしまったな。」‥…。

山口県にて。「まわるイカの話し」

山口県の続き‥…。
烏賊を見ると「海底20000マイル」の映画を思いだす。ネモ船長は悲しかった‥…。
しかし烏賊は美味しかった。昔、夜明けまで烏賊釣り舟に乗って撮影をしたことがあって、漁師さんと釣り上げたその場で食べたのだが、あまりの美味しさにカメラを放り投げて、釣り上がってくる烏賊を片っ端から捌いて食べていたことがあった。こんなに美味しいのなら、一ヶ月ぐらいこの舟に乗っていたいと思った‥…。
で、回っている烏賊。
これは珍しい。世界遺産級だ!名前は何と云うのだ!
「グルイカ」「Google Ika」「回りゃんせ」「回ってんだ!」「回ってまんな」「TONDE TONDE」「てんどうせつちどうせつ」「渚の回転シンドバット」いろいろだ!!
地球上のほとんどの国には行っているがこれは見たことがない。日本独自のものなら是非にでも輸出するべきだ。保存食を作るのにもってこいだ。それに乾燥地帯なら洗濯物も2〜3回廻れば乾くに違いない。
最近は海外でも「津波」「砂防」「もったいない」などの日本語も結構使われているから「MAWAREIKA」とか「IKAMAWARU」というのはどうだろう。そんな中途半端な名前ではなく堂々とKAITEN「回天」はどうだ!
Soreni shitemo 「烏賊」no kanji totemo muzukashidesu.
「KAITEN」

山口県にて。

 ある番組の取材で山口県に。
 海外にいると日本食の素晴らしさを再認識するが、一方、最近の日本食には季節ごとの色彩がなくなってきたようにも思う。地方の何処へ行っても同じような品揃え‥…。
 旅番組で食べ物に関する話題が多すぎるのだろうか。
そう云えば外国のテレビ番組では、レポーターがある店を偶然発見したような(笑)、初めてその料理をたべたような、普通の味でも「絶品だ〜」と叫ぶような。そんな番組は余りないようだ。だいたい水戸黄門のような判で押したような構成はしないものだろう。
 例えば‥…。1)見晴らしの良い、小高い丘からその町の紹介カット。2)レポーター歩く。(どういう訳か、必ず足下からパーンアップ)3)始めてのような素振りで、その地方の特産品の店に入る、あるいは職人の技に歓声を上げる。4)その地方で最も風光明媚な場所で「空気がおいし〜」と叫ぶ。(空気に味があるんかい!)風景をサラ〜っと紹介したら、必ずと言っていいほど温泉に入って「フッ〜生き返った」と言う。(今まで死んでたんかい!) 5)で、ご飯。女将さんか板前さんが横に座って説明。黙って食わしてくれよ〜(笑)
それと、気持ちは分かりますが、ちょっと悲しいのは材料の原価計算を徹底的に追及しているのがお刺身などから伝わってくること。その計算のしかたもカロリー計算された病院のご飯のような‥…。その点、京都というか関西はそんなことを感じさせない演出力がありまんな〜。
 で、「雲丹卵丼」。これは北海道で食べたような記憶があるのだけれど‥‥。でも今は山口県で撮影中。