2009年3月29日日曜日

世界遺産にて。「デンマーク・クロンボー城」

ナチスと闘った人々の撮影だった。この方は一人乗りのカヌーでレジスタンスやユダヤ人を何回もスエーデンに運んだそうです。伸ばした足の間に潜り込ませて。小さなカヌーではさぞかし、たいへんだったと思う。


新聞に掲載されたので、僕たちはどこのレストランでも、それはそれは地味でしたが一応は大歓迎。どの国の新聞記事もだいたい結構ないい加減さだが、ここでもそうだった。番組の1シーンの撮影だったのに、日本の外務省、日本大使館、デンマーク政府が動いたような記事になっていた。よく考えると、そんな記事でも各方面に大きな影響もないか。新聞記事ってそうなんだ。そうだよな〜。

そうそう、コォーオディネターの池田さん。超がつくほど物凄く優秀な女性でした。


雲南省 羅平県にて。

世界遺産プロデューサーの大野さんが、密かに温めている中国企画の第三弾が雲南省の菜の花畑。「水平線まで一面の菜の花があるから撮影に行こう!」と一本の電話。で9時間後には上海経由雲南省に。 僕は畑一面の菜の花畑のどこが珍しいのだろうと、正直な話し信じられなかったが。ところが!現場について驚いた。本当に一面の菜の花だった。それも大阪にある環状線の内側ぐらいの大きさらしい。あまりの凄さに声も出なかった。


僕たちがベースにした、金鶏という村の付近には中国各地から養蜂家が集まり、質のいい蜂蜜を生産していた。僕たちは大歓迎されて、何処へ撮影に行っても必ず蜂蜜を飲めと進められる。日本でも同じだが、中国でも地方の人たちは佇まいが穏やか。どの国に行っても感じる、自然に近いところに住まう人のある種の優しさは何だろ。
ここでの撮影は2月ごろだったが、養蜂家の人たちは季節とともに、北上する花を追って雲南から内モンゴルまで移動するらしい。たくさんの巣箱をトラックに積んで。


有名な観光スポットはいろいろあるが、「菜の花の絶景」は世界でここだけだろう。機会があれば一度は行った方がいい。一面の菜の花、誰だって一生忘れない風景になる。
昆明から車で6〜7時間ほど。ベトナムにやや近づく。トイレはたぶん、まだ中国式。又は菜の花畑にて。

2009年3月26日木曜日

世界遺産にて。「ヴェネチア」



ベネチアを終の棲家とまで考えていたヘミングウェ-が、魚の群を追っていた潟の上を僕はヘリコプターで飛びます。画面いっぱいに写ったヘリのシルエットは、葦の上では金色に、水の上では青磁色に変わります。2月の北イタリアは強烈な寒さですが、不思議なことに300フィートの上空ではそれほど寒くはないのです。確実に春は近づいています。それも地上ではなく空から。



サンマルコ広場はサッカー場がすっぽり入る広さ。そこにいろいろな人種が集います。
最近、特に多いのは圧倒的に中国人。不況とはいえ、ややこじんまりした団体は日本人。それも午前中はひっきりなしに、船から日本人観光客がおりてきます。そしてここに留まらず15時の船で引き上げていきます。これは日本人の観光ルートが変わり、ローマ、ベネチア、ミラノの三都コースが飽きられてきたため、ベネチアをサーっと通り過ぎるらしいのです。しかし中身は相変わらずブランド品の買いあさり旅行。なかなかやります日本人。
ちょっと美味しい中華料理の店を見つけました。そこの女性主人は取材班から「ヴェニスのおっかさん」と呼ばれています。

このパイロットは半端ではない腕の持ち主。アドリア海一のパイロットとコォーオディネイターの岩倉さん。全くその通りでした。イタリア北部は彼でカバーできるようになった。

2009年3月22日日曜日

モノクローム

最初に撮った写真はこんなモノクロームだった。今でも時々、思いだしたようにこんな映像を撮ることがある。初めて撮った光を覚えているのかも‥…。

世界遺産にて。「アルゼンチン 風の大陸」




アルゼンチンは遠い国である。
日本では春になろうとするこの季節、南半球では秋の終わり、もうすぐカラカラの冬がくる。パタゴニア、サンタクルス州、リオピントゥラスの近く。強い風が毎日創りだす不思議な夕焼けを一ヶ月近くも見ていた。
もう一度、あの夕焼けを見ていたい。もう一度あの強い風に吹かれてみたい。と想うことがある。

2009年3月21日土曜日

遠い昔。

エリザベス女王陛下の来日が決まった。陛下の来日となると、海外からの取材班も含めて、大変な人数になることが予想されるため、報道各社は早々と外務省に取材許可申請を始める。私も鼻息荒く女王陛下の取材予定表に記載されているスタッフ表に自分の名前を探した。

しかし、私は取材班から外されて一般のニュース待機になっていた。少し残念だけれど、よく考えてみるとキャメラマンになってまだ一年も経っていない新人が、そんな大取材に参加できるはずもない。
そんな気持ちをデスクに話すと「君ね、君の頭、丸刈りだろう。イギリスでは刑務所に入ったら丸刈りになるのだ。君の青々とした坊主頭は記者会見場では目立つだろ、だから無理だネ」とニヤニヤ。そんな慰めかたもあるのだ。

2009年3月20日金曜日

遠い昔。

5年は修行しなければならない撮影助手。その助手を五ヶ月という異例の早さで卒業したのは1975年5月5日。明くる日の6日に放送局の報道取材部に。K課長という凄腕大キャメラマンのもとで修行が始まった。野球の撮影ではホームランボールをバットに当たった瞬間からスタンドに入るまでを、ノーファインダーで追うことができる。それもボールを画面の真ん中においてなのだ!私は撮影済みのラッシュをみてビックリ仰天してしまった。もう一人、Hキャメラマンもそのカットを撮影できる人だった。他局のキャメラマン諸氏も二人のことを戦艦大和、武蔵と呼んでいた。この人たちが出撃すると私のような若輩など出る幕もない。結局、私はその撮影技術をマスターすることができず、今でも飛んでいる鳥を撮影する時など、そのことが悔やまれる。若いときには無理してでも様々な技術を経験するべきだとしみじみ思う。

世界遺産にて。「ヴェネチア」

撮影機材はこれで360kg。今回はコンパクトに収まった方とか。撮影関係のレンズやモニターを含む諸機材。そして音声と照明関係の機材。これを4人のスタッフで運搬。空港にはコーディネーターと運転手さんが待っていてくれる。他の取材班もだいたいこんな機材量で事故、盗難は皆無。
ヴェネチアは車が使えないので、船に積み替えての運搬である。VE氏と照明マンはたいへんなのです。
欧州の建築物は照明が難しいので、その国のスタッフに応援を求める。会話は英語が主ですが、日本語も堂々とまかり通っている。クレーンと照明を同時に使う撮影は大たいへん!15人程度の多国籍軍が現場を走り回る。それも撮影は拝観終了後が多いので深夜に。軽く気持ちのよい疲れの毎日。


2009年3月19日木曜日

世界遺産にて。「帰国して」

高速で芝浦の辺りから、東京タワーがスクッと見えると、あ〜帰ってきたと思う。
これから新しいタワーが立つらしいが、やはり東京タワーは存在の重みが違うのだ。なぜかというと?新しいタワーはモスラの幼虫には大きすぎるのだょ(笑)。
繭を作るのに東京タワーのあのカーブを狙うのはなかなか。でも展望台から先を倒さなくてもいいと思うのですが。確か、モスラは人類の味方だとザ・ピーナッツが言ってました(笑)。昔の話しですが、モスラはいい映画でした、繭を作ったところまでは。

JR京都駅 新福菜館

JR京都駅東側にある新福菜館。シンプクサイカン美味しい!旨い!コクがある!ラーメンはスープの色で判断するものではない。一度は行くべきです。いつも混んでますけどね。色黒チャーハンも美味しいです。

2009年3月18日水曜日

遠い昔。

写真を勉強していた18才の頃、いつも鞄の中にあったのは上田敏とつげ義春のマンガだった。小さい時はもっぱら貸本屋さん通い。もらった会員番号は103番。借りていたマンガは杉浦茂、手塚治、ヒモトタロウ、水木しげる、松本零士(超音クラブ)。それぞれに絵と物語が抜群な人たち。なかでも杉浦さんは日本の宝だと思う。

「ねじ式」には驚いた。つげ義春の漫画の画角は広角系だと思った。(その頃は、そんな心理状態だったのだろう。)私が28mmの広角レンズを購入したのは、つげ義春の漫画に出会ったからだ。

2009年3月17日火曜日

世界遺産にて。 「プエルト モント」

南アメリカ大陸、チリ共和国にあるプエルト・モントはサンチャゴから飛行機で3時間ほど南に下ったところ。日本から飛行機を乗り継いでクタクタになって辿り着いた。島々に点在する教会とその景観が世界遺産。写真はプエルト・モントについてまだ二日目の腕。手袋をはめた手と比較する。二日目でこんな状態だったら、これからどうなるのだ!

2009年3月16日月曜日

世界遺産にて。「野中機長」その1

”空撮はパイロットの腕で決まる”

野中さんは阪急航空のパイロット。私は空撮を単なる説明的な映像(ニュースはそうでなければならない。)ではなく、つまり「高価な脚立撮影」で終わる空撮を、野中さんのお陰で「表現する空撮」として考えられるようになった。
野中さんの凄さを知ったのは「人形浄瑠璃 文楽研修生」を追ったドキュメンタリー番組。文楽研修生とヘリコプターが結びつかず、ヘリを飛ばす理由をデスクに説明するのは四苦八苦。もう一つは「グリコ森永事件」での空撮だった。全国ネットで放送されたその映像は、私がTBSの世界遺産に参加する、遠い遠いきっかけになったのであった。

世界遺産にて。「電車の中吊り」

 ある朝、電車に乗ってフッと見上げると私が撮影した写真を掲載した中つり広告がズラリ。車両の中つり全部が放送の告知だった。
 これはラパヌイ島(イースター島)の夜明けに撮影したカットだった。だだ混み通勤列車で右に押され、左に揺られてもその朝は気にならず、駅に着くまで、既に遠い記憶になり始めたラパヌイの風景を想いだしていた。
 僕の記憶は、誰かを待っているような物悲しいモアイを巡り、砂埃の舞う道と夏草をかすめ、気がつくと島を取りまく黒く深くい群青の海をたゆたっていた。

2009年3月14日土曜日

世界遺産スタッフルーム。

 ある日電話があった。世界遺産プロデュサーの大野さんからだった。
「京都の世界遺産、ラッシュ見ました。これから本体のキャメラやりませんか?取りあえず来月からイランなんですよ‥…。」ということで僕は世界遺産のスタッフになった。
 関西の放送局の三倍はある巨大なTBS。エレベーターを降りると、辻村さん、大野さん。二人のプロデュサーが笑って立っておられた。お二人とも、僕がローカル局で撮影していた番組を既に御覧になっていて、特に辻村さんは報道特集を担当されていたので、僕のことはご存知だった。「僕たちが後ろで守りますから、エンジン全開で好きにやって下さい。」
その言葉通り僕はお二人には随分と助けていただいた。(僕はこのお二人からプロデュサーの戦略と戦術がどれほど大切なものか教えられた。)

 関西出身のAD、K君に案内されたスタッフルームは、世界遺産の頭脳であるディレクターの部屋で、NHKを始め民放でも最高峰の番組を制作している部署にしては、驚くほど小さな部屋だった。
ディレクターの多くが海外出張中のこの部署を運営しているのは聡明な女性達。とてもいい雰囲気で、なんとなく番組の勢いを感じさせる。女性が元気な会社はだいたいいい仕事をしている。何と言っても「お金」の管理がしっかりしている。(笑)
 
 撮影部は子会社で、世界遺産の機材はこの会社で調達する。当然のことだが新参者には撮影部の”入り口”が容易に見つからないし、組織に馴染ませてくれない。東京ではその傾向が特に強く、予想はしていたが撮影部の壁は「無視」「拒視」「蔑視」となかなか結構なぶ厚さだった。こんな状態の時には焦らず”控えめにデカイ顔”をして時間が経つのを待つしかない。それにしてもスタッフキャメラマンの部署というのは北から南まで不思議なほど同じ空気だ。これと違う空気にすれば、それだけでいい撮影部になるかも(笑)。

2009年3月11日水曜日

青島の旅行鞄。

 父が満州事変の頃に買ったという古い鞄がある。
今の北朝鮮にあった新義州守備隊に兵隊として出征していた父が持ち帰ったもの。鞄のラベルには「青島」とJTBという文字、それに牛の刻印があり、外観もまだ立派で内装も美しい。それに、80年近くも経っているというのに鍵はしっかりと機能しているのだ。それでも、さすがに小さな擦り切れや傷があるので修理ができないものかと大阪の南にあるその鞄屋に持っていった。歴史に名を残す著名人と親交のあった先代の親父さんは亡くなっていて、今は息子が店を継いでいた。
 この鞄は父が遺したもので、満州で買ったものだと経緯を話すと、チラッと一瞥して、
「そんな古いものは修理できません。」と一言。
「これだけ乾いている革に、針を刺したらそこからひび割れてアウト。ある程度、湿ってたら手の出しようもあるけど、こんな乾いてもうた革はどうなるか分かりまへん。こんだけ乾いてたらあかんあかん。反対にうちが弁償や。」
 仕事を断るにしても否定の仕方にムッとなった。と同時にこの店はこの男の代で確実に終わるだろうと思った。生きる道や時間が違うのだから、子供が父親を乗り越えるのは永遠に不可能ではあるが、父親の後を継ぐものは、その技術、信用、何より誠意を獲得するために、父親の三倍は努力をしなくてはならないのだ‥…。

2009年3月8日日曜日

終わってホッと!

このチョコレート台風は結局のところ半年で終息した。終息したのは完璧な営業不足。というかとても手が回らなかったことと、東京ならまだしも、大阪ではこの種の商売は成り立たないという実感。しかし本音を言うと終わって心からホッとした。事故はなかったのだが、シビアな納期と食品を扱う場合の衛生管理はほんとうに大変だった。今でも食品会社の撮影をするとその頃のことが頭をよぎり、磨かれた製造設備や働いている人のことを思う・・。いえ、思えるようになりました。
ところで実用新案は現在進行形ですが、いい線まで行っているそうです。答えが出るまで時間が掛かりすぎるのが残念。
そうそう、儲かったのかどうかというと、ヨットの・・・を買えるぐらい・・。少し儲かったのでありました。

2009年3月4日水曜日

凄いぞ!マスコミの影響力!

凄い!凄い!マスコミの影響力はこんなに凄いのだ!掲載翌日から電話は鳴りっぱなし。いきなりの注文殺到である。それも半端な数ではない!数万個単位、しかも名のある企業ばかりなのだ。
関西方面で人気の球団の優勝記念イベントに!国営だった鉄道会社から乗車記念に!国内最大手の航空会社から海外路線のビジネスクラスのオヤツに!文字フォントの会社から展覧会の記念に!そして演歌歌手のキャンペーングッズにと、大変な反響だった。

印刷会社のT社長は自分の会社に出社せず、自宅からフルタ製菓と印刷屋さん、そしてオブザアイとを行ったり来たり。甘い匂いのたちこめる事務所には一斗缶がどんどん積まれ、机の上に袋や箱が散乱していた。アルバイト君はもちろん、カメラ助手もカメラメーカーの営業マンまで袋詰め作業に駆出されたのであった。

2009年3月2日月曜日

経済記者クラブで発表

数日後、いつも印刷をお願いしているT印刷の社長から電話があった。

「チョコレートに印刷できますよ。」

「へ〜食用インクか?」

「食用インクっていろいろあるんですよ。」

「安全でしょうな?」

「当然ですよ。なんかカルシュウムみたいなのを使うんですって。」

印刷屋さんの目処はついた。チョコレートはフルタ製菓で購入。
あとは宣伝だ!爆発的にヒットしたらどうしよう!
巨大なビルが建ったら、その名前は「チョコラ・ビル」にしよう!
「碁を打つ二人。パシッと打った指先にはチョコレート。
相手がそれを摘んで食べて、ニッコリ」なんてCMはすぐに作れる!
あ〜夢は膨らむばかりだ!
経済番組を取材している関係で、瞬時に経済記者クラブでの記者会見が成立。
堂々の「産經新聞2社面」「日経トレンディ」に掲載されることになったのである!