古びたインクと紙の匂いも懐かしく、ゆったり流れる風は祈りが終わったイスラム寺院に似ていて心地よい。
歴史関係の棚では太古のカンブリア紀から明治時代まで、科学の棚では原子核からカブトムシまで、縦横無尽に自由自在に本のなかで遊んでいられた。
本に囲まれていると少々暖かい。西 周はそれを“知恵の温もり”と形容していた。できるなら散らかしたり、こぼしたりしないから、お菓子と珈琲が飲めるといいのだが……30歳以上の人だけとか……無理か……。
京都にある日本文化研究センターの巨大な円形図書館は素晴らしかったし、カリフォルニア州のサリナスにある図書館もスタインベックを郷土の誇りとして大切に思っている姿勢がよかった。
滋賀県八日市市立図書館の子供コーナーにはこんな張り紙がしてある。
「図書館には本が並んで眠っています。そっと起こして下さいね。」
八日市図書館の司書さん達は本を借りにきた人に「ありがとうございます。」と挨拶する。図書館としての市民サービスを熟考し理解している尊敬すべき人々だ。それに比べれば紅衛兵のような顔をして市民を見下す吹田市の図書館とは大違い。
会社設立当初の主たる仕事はテレビ番組の撮影。しかし事件や事故を追いかけたり、芸能人を追回すワイドショーの仕事は意識して避けてきた。昭和から平成に変わる頃の日本では凄まじい事件や事故が頻発し、特に大阪は事件が多かったように思う。当時は各局でお昼のワイドショーが花盛り。マイクを片手に走るレポーター、カメラを担いだキャメラマン、カメアシと呼ばれる撮影助手、それに音声マン。この4人編成の撮影クルーが街に溢れかえっていた。ワイドショーを制作するのは主に東京キー局で、地方取材は地元の撮影専門プロダクションに発注される。
事件が発生した時のキー局からの発注は凄まじく、一日に5クルーの発注もあったとかで、このワイドショー対応を含めて1000万を超える売り上げを計上していた会社もあり、撮影会社間の激烈な競争やダンピングの嵐が吹き荒れていた。
放送局の重役から、ワイドショーの仕事をすれば次の月末には局から金が振り込まれる。東京キー局の幹部を全部紹介するから、会社の経営を考えて発注を受けろと涙が出そうなご教示も頂いた。
師走の街を狂ったようにパトカーが走り、その後を報道の車が追いかけ、テレビクルーが走っていく現場を僕は横目で見ながら会社に急ぐ。当座には40000円の預金しかなく、会社のことを考えると喉から手、いや血が出るほど仕事が欲しかった。それでもワイドショーの仕事を避けたのは、この仕事はキャメラマンを駄目にすると直感したからだった。
しかし経営は苦しい。月末の帳簿や請求書を見るたびに、何度も「志」を葬ろうと思った。そんな極貧のオブザアイが生き延びることができたのは、日本図書館協会から発注された「図書館の人々」というドキュメンタリーの制作だった。「図書館の人々」こそ、オブザアイが制作会社に舵を切るきっかけになったドキュメンタリーだった。
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