2009年4月23日木曜日

世界遺産の取材に‥‥。

シベリア上空11000m。
昔はアンカレッジ経由で北極をかすめて飛んでいました。時間はかかったけれど、機内食は今より数十倍すごかった。おにぎりは出なかったすよ。
子供の頃、図鑑に載っていた世界の航空会社は全部覚えていたけれど、今は消えてしまった航空会社も。あのパンアメリカンが消滅してしまったのだから。

シートベルト着用のサインが消えると、おばさん達がモゾモゾ立ち上がる。ちょっとすごいのは着替える人がいること。昔、マニラの空港で着替えている農協のおじさん達の集団を思いだす。飛行機はいつ揺れるかわからないから、みんなで立ち上がるのはどうですかね。乱気流に遭遇して、おばさんが降ってきたらと考えるだけで‥…身をすくめている。その危険をちょっとでも回避できるのは一番後ろのシート。ここは後ろからの攻撃はあり得ない。で通路側は逃げる空間を確保できる。ちょっと宮本武蔵みたいだけど、世界遺産のスタッフは全員通路側に席を取ることになっている。

2009年4月10日金曜日

世界遺産にて。バッハウ渓谷「Fly Haas」


漢字で取材予定表を作れる、
優秀なオーストリアのコォーオディネィターはカリン女史。
その女史が信頼するパイロットがハス氏。ヘリコプターの運航会社を経営し、防振装置も創り上げてしまう。
キャメラマンが座る座席ごと防振してしまうシステム。

世界でも類を見ない、ユニークな防振装置。

空からいい映像を撮るには、カメラやヘリコプターの機種よりもパイロットを選ぶべきである。操縦技術の高いパイロットの共通点は、映像が好きで良く研究していること。
カメラ側のドアは全開にして飛ぶが、その際に吹き込んでくる風の強さがベテランとヘタッピンでは違う。ベテランは風圧で息もできないほど、撮影時の機体の角度にメリハリがある。
そして自分の飛行姿勢と撮影している映像が重なって見えているから、キャメラマンはカメラを構えているだけで、目的の被写体がフレームインしてくるのだ。
ハス氏は007シリーズの空撮を担当している最高のパイロットだ。

2009年4月9日木曜日

世界遺産にて。「パルテノンの丘」

中学で習うギリシャの歴史と崇高な美術史に触れてから、パルテノン神殿には淡いあこがれがあった。特に美術は合田先生という”本当の画家”が担当だっただけに、今でも先生の授業は忘れられない。「絵はモノの形がわかればよい」「目に焼き付くぐらいに被写体を見る」といった美術以外にも通用する教えを授けられた。

合田先生はよくポプラを描いておられた。
「春の日の花と輝く」は下校を知らせる音楽。帰り支度をして窓から運動場を見ると合田先生がキャンバスを前にポプラを見上げておられた。黒緑のポプラと麦わら帽子、校庭に伸びたポプラと先生の影が今も目に焼き付いている。

西洋美術を専門に学ばれた先生のギリシャ美術史は、哲学も適度に引用されていて「倫理」だ「論理」だと生意気に口走りはじめた年代には、段ボール程度の鎧ではあるけれど理論武装にはもってこいだった。その後、先生は高校で教鞭をとることになって退職された。

近くで見る神殿は荘厳であった。様々な戦渦をくぐり、修復での組み立てミスもあったけれど、そんなことには微動だにしないで立っている。柱の組み立てミスは大昔のことですから。
撮影が終わって振返ると、静まりかえった神殿は夕日を浴びて輝いていた。歴史的建造物に共通しているのは強い斜めの光を受けた時に、建物の骨格が一瞬見えるときがある。

長く伸びた神殿の柱の影をどこかで見たような‥…。一瞬、合田先生と麦わら帽子が見えたような気がした‥…。

学芸会。

小豆島の空撮は予定より時間がかかり、ヘリは日没までに八尾空港に着陸しようとフルスピードで急ぐ。焦るパイロットには申し訳ないのだが、なんとも美しい太陽が沈んでいく。
やっとの思いで日没前には滑走路に滑り込んだ。格納庫の前には夕日を背に受け、身長の三倍に伸びた影を震わせ、両手を広げた整備員が誘導を始める。

こんな光景を見るたびに、小学校4年生の学芸会を思いだす。劇は「走れメロス」。全員で描いて、黒板一面に張った真っ赤な夕日の絵とそっくり。担任だった瀬川先生の結核療養所での愛読書は太宰治だったという。頬杖が似合う先生だった。亡くなられてからもう何年経っただろう‥…。

2009年4月2日木曜日

ライカM2。

写真家だった父。
その人生で最後に写したのはこのライカM2型だった……

葬儀も終わり、片付けをしていると応接間のテレビの横にこのカメラは置いてあった。巻き取りレバーをさわるとフィルムが装填されていて、カウンターは15枚目で終わっている。試しに現像してみると、確かにフィルムは15枚まで撮影されていた……





父の死んだ日、僕は「松食い虫駆除」の空中散布をするヘリを撮影するために、早朝から堂島にある朝日へリポートを飛び立った。
急旋回を繰り返す散布ヘリをこちらもヘリで追いかけるのは辛かったが、パイロットの操縦もあっていい映像が撮影できた。
その映像は夕方のニュースで、トップ項目で放送されることになったので、父に電話してテレビを見てくれるように伝え、僕は和歌山県に出張した。





旅館に宿直勤務の樺沢デスクから電話があったのは、午前0時を回った深夜だった。

家に帰ると父が眠るように横たわっていて、ほんのりと体温が残っている。分厚い胸を押さえると呼吸するような音がした。まだ生きているような気がして思わず手を握ってみた。大きな父の手だったが握り返すはずもなかった……

葬儀は自分の意志とは関係なく嵐のように押され、流され、そして終わった。




現像したフィルムの15枚目以降は透明なフィルムだった……

16枚目に父はどんな写真を写しただろうと思うと、涙が止めどなくあふれてきた。
踏ん張っていた何かが崩れて、僕はオレンジ色の暗室で一人で泣いた。

父の人生で最後に撮影して写真……15枚目に写っていたのは、
僕が撮影したニュース映像が放送されているテレビ画面だった……


世界遺産にて。「奈良 東大寺」

堂々としたこの大仏殿は日本の誇り。撮影のために天井に上げて頂いたが、縦横に走る梁、その巨大さに形容する言葉もでませんでした。しかし昔の大仏殿は現在よりさらに大きかったのです。
奈良方面の取材でいつも悩むのはご飯。しかし奈良はオブザアイ健康管理部の守備範囲。大仏様の撮影は拝観後になるので、ちょうど夕ご飯を用意できるのです。
撮影班は制作部2、撮影部3、照明部4、特機1の総勢10人。撮影は合戦と似たところがあるので、こんなときは「おにぎり」。
釣瓶落としの真っ赤な夕日と大仏殿。車座に座って黙々とおにぎりを食べる10人のシルエット。小さい時にこんな風景を見たような‥‥。

2009年4月1日水曜日

三重県 宮川にて。

電話に出ると、いつもの落ち着いた声で、「神様が木々の間におられるような、風のみえるような、音のないシーンとした風景を撮れるか?」と生命交響楽をディレクションされている龍村監督から。

ちょうど伊勢神宮の撮影があったので、途中の宮川をひたすら遡った。実は昨夜からの雨で川の流れが激しい。とてもとても神様が水もに御立ちになれる状態ではない。
さらに遡ると暗い林道の向うがほのかに明るい。杉の林立が広葉樹に変わり始めた時、ポッカリと広い川岸にでた。


雨もすっかり上がって山々は霞んでいる。シーンと静まりかえった川の淀みには音もなく風が吹いてサラサラ模様を描いていた。
鳥も鳴かない。水のながれる音もしない。ただ木々の新芽だけが揺れている。荘厳なる風景に形容する言葉もない。何ものにも代え難い静謐な時間。気がつくと、僕はいつの間にか水の中に立っていた。今でも宮川の緑、風、水の冷たさ、すべてのディテールを思いだすことができる。

安藤さんの建物。

大阪事務所は世界的な建築家 安藤忠雄氏の設計したビルにある。
別に狙っていたのではなく、三回目の移転で偶然にこのビルだった。

なんとも言えず、ドッシリとした安心できる事務所です。

偶然に安藤さんと遭遇することもある。

安藤さんのビルにいると、階段の美しさに立ち止ることがある。

安藤さんにある番組でインタビューをお願いした。打合せなどなく、いきなり本番で、時間通りキッチリ終わる。インタビュー5分、世間話20分。合計25分で終わりました。
えっ?どんな世間話!関西経済のこと、放送局のこと、近くのおそば屋さんのこと。

水野さんのアトリエ。


とても美しい声の持ち主、大貫さんの撮影のために、水野  学氏のギャラリーをお借りした。当然、展示物はないのだが、そこに流れている空気は、新進気鋭の水野氏そのもので凛として上品。京都の著名な骨董商である佃さんは、その気品や上品さのことを「スキッーとしてる」と表現されます。

デザインで生みだされた製品や印刷物は、人々によって途轍もなく遠くに運ばれて、しかも時間というジャッジにさらされる。その無慈悲な試練を貫いて生き残るのは「スキッーとした」、つまり「上品」さしかないのだ。

グッドデザインカンパニーは紛れもなく日本を支えるデザイン事務所だと思う。

東京天文台 思考の道。

三鷹にある東京天文台の思考の道。
広大な天文台で面白いのは、メインの道路に太陽系が海王星から太陽まで模型で再現してあり。見学者は歩きながら、それぞれの惑星の距離が体感できる。
なんと言っても、天文台は静かである。