2009年5月27日水曜日

想いで。「やよひスレート株式会社」




昭和22年8月、カラリと晴れた夏のある日。
やよひスレートの前に広がる坂道の頂上に、一人のみすぼらしい兵隊があらわれた。
事務所で客と話し込んでいた父がふっと窓の外を見るなり突然、立ち上がり、事務所の皆が驚くのを尻目に会社の大きな正門を走り抜け、「のぶ!」「信!」と叫びながら坂道を駆け上がってその日本兵を抱きしめたという。「信」は信彦という父の末弟だった……。


大阪外大でインドネシア語を学んだ叔父は、太平洋戦争中に日本軍が占領していたボルネオの学校に校長先生として赴任していた。それは現地の人達に日本語を教える為だった。
兵隊ではなかったので戦争に負けても現地の人たちは暖かく接してくれたが、しかし連合軍の取り調べは過酷で、嫌疑が晴れて日本に帰って来れたのは昭和22年7月だった。

……抱き合って泣いている兄と弟の向こうには、雄大な入道雲がわきたち、強烈な太陽に照らされた坂道には陽炎が燃え立っていたという。

男の兄弟っていいな〜と母はしみじみ言っていた。シンメトリーの構図が映像として初めて思い浮かんだ母の想いで話……。

2009年5月22日金曜日

三尾公三先生


僕は今でも時々、三尾先生のことを想いだす。
第一印象は「静謐なる紳士」。ミラボー橋にたたずまれても、フィレンツェの丘に立たれても、その風景に負けない精神的な存在感があったと思う。
















僕は撮影に行き詰まると三尾先生のことを考える。
物静かで思慮深く、しかし精神という大きな掌で包まれてしまう。恐らく人生をゆっくり思案しながら歩いて来られたのだろう。
決して驕らず、決して揺るがず、決して譲られなかった。





学生でもない、生徒でもない、数日のあいだ撮影にお邪魔しただけの僕に先生はこう話された「君は堂々と君だけの道を歩けばいいのです」と御教示下さった。

三尾先生は何処まで歩いていかれたろうか……。

2009年5月20日水曜日

世界遺産にて。「エストニアの空」




撮影をお願いした農家まで3時間。そこに到着するまでこんな風景が続いていた。
空の風景とそこに住む人たちの気質形成とは何か関係があるのだろうか。穏やかで、たおやかな人々のなんと多い国だろうか。
旅人や異国の人間を「いたわる」その心情が伝わってくる。僕たちは異国の人々にそんな思いで接しているのだろうか。

2009年5月14日木曜日

古美術佃




骨董の趣味はないのだけれど、撮影でお世話になった佃さんの博識に驚いて、それからは仕事抜きで勉強をさせて頂いている。勉強と言っても「一般教養」で、骨董に関することは殆どない。
佃さんの知識は途轍もなく幅広くそして深い。一つの皿から平安時代の世相、庶民の暮らし、当時の人々の物の考え方までスラスラと具体的な映像を伴った言葉となる。骨董という幹があり、そこに枝葉が逞しく伸び、たわわに実がなっているような……。佃さんの話しは尽きないのだ。こんな人が大学の先生になったらいい生徒が集まると思う。




いつも上品で物静かな花が一輪。教養の深さが計り知れる……。

世界遺産にて。「兵馬庸」

その余りの凄さに立ちすくんでしまった兵馬俑。しかもこれは一部なのだ。
一体、一体が違う表情のこれだけの俑を作る技術もさることながら、発想して作らせた人間の存在を考える。
身に余る大きなプロジェクトは現代にもある。僕たちの生業としている映像の仕事も実はそうなのだ。スポンサーが降りれば終了する番組。それを守ろうともしないテレビ局。視聴者に支持されている番組をいじくって駄目にするディレクター。どれだけの番組とスタッフが消えていっただろう。しかし、番組が駄目になっていく一番の綻びは、実はその番組に参加しているスタッフ。特にプロデュサー、これが腰抜けだと絶対にいい番組はできないのだ。

世界遺産にて。「スペイン」

「遠い空、遠い雲、ひつじ鳴くまにまに聴こえる牧童の口笛。」
「400mmで撮りましょうか。」と振返ると既にカメラには望遠レンズが‥…。
最高のスタッフによるスペイン取材が始まった。

2009年5月12日火曜日

世界遺産にて。「フィンランド」

大砲に座るのは特機部のキンモさんとその仲間。
キンモさん達の特機部は大男ばかり。レールやクレーンを軽々と運んでいく。
何と言っても人間の質がよく上品。いろいろな多国籍軍と仕事をしてきたが、フィンランドのチーム・キンモは最高の特機部。
機材が遅れたので、キンモさんと1時間ばかりフィンランド語と日本語、英語と絵で会話していた。
写真で見た奥さんは超美人でした。愛犬ブルドッグとの散歩が趣味だとか。
キンモさんは元気ですか。

2009年5月10日日曜日

世界遺産にて。「エジプト」



日が昇ると世界各国から観光客が押し寄せ、這い上がり、よじ上り、様々なポーズで写真を撮り、そしてぞろぞろと奥深くの玄室に。ピラミッドは休む暇もない。
拝観が終わるのは夕陽が地平線の近くまで降りてきたころ。
太陽が沈むすこし前、ギーザのピラミド群は観光客が帰ったとたんに、4000年前の静寂に帰るのだ。

2009年5月8日金曜日

世界遺産にて。 「リトアニア」

リトアニア、ヴィニリスの近郊。
おびただしいタンポポが、終わりかけた春の風に乗せて綿帽子を飛ばしていた。
遠くで鳴く鳥の声以外は無音の世界。ゆったりとした風に春を満喫し、ふっと足下を見ると錆びた薬莢がゴロゴロ。
この辺りは第二次世界大戦の頃、ドイツとソヴィエットの戦車による大きな戦いがあった場所だという。
「花の数ほど薬莢がころがっているのですよ」と通訳氏。

世界遺産にて。 アルゼンチン 「パタゴニア」


夕陽のなかで撮影機材の積み込み。

ブエノスアイレスから飛行機で3時間半。パタゴニアのコモドロ・リバタビアの空港に降りたのは20時頃。ガラーンとした地の果てのような風景のなかで夕陽は輝いていた。
明日からパタゴニア地方を横断し、途中から南に下ってサンタクルス、アンデス山の近くまで数千キロを走破しなければならない。空港での輝くような夕陽は、その輝き以上の風景を僕たちに見せてくれた。それは人間の為などではなく、太古の昔から地球が演じてきた大パノラマだった

追記)コモドロ・リバタビアの空港の近くに小松製作所の立派な営業所があった。Komatsuは建設機械の有名な会社。ショベルカーの腕にKomatsuと書いてあるのを世界中で見かける。よくぞこんな遠いところに!‥…ちょっとジーンとしてしまった。小松製作所!がんばれ!!

2009年5月6日水曜日

世界遺産にて。スペイン「サラマンカ大学」

スペインのサラマンカ大学は沢山の偉人を輩出した大学。またスペイン各地から学生が集まり、大学を中心に大きな街が形成されていった。コロンブスも一時期、勉学に励んだ世界でも五本の指に入る由緒ある大学だった。

番組のオープニングは青雲の志を抱いた青年が大学を目指すシーン。
ロケ地は偶然にも、なだらかな丘にポプラが一本。当時の衣装を大至急用意してイメージカットの撮影。モデルはスペイン人のアシスタント君。
「ポプラ見て!葉っぱがキラキラしてるやろう!その一つ一つが君の人生の想いでやぞ〜!」と日本語で。
撮影が終わって、目が赤い!「どうしたん?」と聞くと、子供の頃のこと、おばあちゃんのこと、お分かれした彼女のことを考えていたら泣けてきたそうです。
「泣くなよ」と首に巻いたバンダナを渡す。僕のバンダナはきっと汗で塩っぱかったろうな〜。
なかなかいい青年だった。

芋。

ノーベル賞を受賞した高名な学者がよく立ち寄ったという、
京都は八坂にある老舗の日本料理店。
ある番組のために京都特集を撮影することになり、そのお店に午后の遅くに御邪魔してお料理を撮影させて頂いた。夕方の開店準備でお忙しいなか、ご主人は機嫌良く従業員の方もとても協力的だった。

‥…しかし放送ではすっぽりとこのお店がぬけ落ちていた。つまり没になったのだ。
没になったのは単に時間(尺)の問題だと言う。撮影した映像が没になるのはよくある話しだけれど、この場合は時間(尺)の問題ではなく構成力の問題ではないのか。
撮影は僕たちにとって日常の作業だが、取材された側は一生の思い出に近いだろう。いくら取材慣れしている京都の料亭でも自分たちのシーンが没だったら、がっかりされただろうと思う。後味の悪い一番嫌いなパターンの撮影になったな〜と、芋の煮っころがしを見ると、今でもその時のことが蘇ってくる。

2009年5月4日月曜日

津田さんの「タルト」

津田さんのお創りになるお菓子は堂々としている。
どれほど凄いカメラで撮影しようともびくともしない気品がある。
こんな映像を残したいと心から思います。
でも映像のでき上がりも凄いのだ。

RED ONE「津田さんのタルト」

フロールで著名な津田さんのアトリエでタルトの撮影。

RED ONEという新しいカメラでの撮影だった。
映画用のカメラだったので、その画質の素晴らしさに驚いた。

画質がいいのでライティングはちょっと煩雑。
このRED ONEはこれから開発される
カメラのコンセプトを根本的に変えてしまうだろう。

ソニーや松下は
日本のお家芸である小型のカメラをテレビ用に開発すればいい。
家電製品会社のカメラのデザインは最悪だ。
技術者の頭の固さには閉口する。

特にファインダー。
機械と人間の接点であるファインダーのデザインと精度はおざなり。
何度言っても無視される。
”思いやるデザイン”という意識が抜け落ちているのだ。
と川崎和男先生と話している。
「撮影するキャメラマンのことは考えていないのだ。」

プロ用のカメラはニコンやキャノンが開発する時代がもうすぐ来る。

2009年5月1日金曜日

世界遺産にて。「ヴェネチア」

ベニスの撮影でちょっと便利なのが「貨物ボート」。007が乗るようなボートタクシーに比べるとカッチョよくないが、安定していてスピードが出ない分、映像の流れがちょうど良い。
また、それほど大きくもないのでゴンドラや他の船の邪魔になることもない。
ベトナムで走っていた米軍のパトロールボートに似ていて、たいへん小回りが利くので運河をくまなく一日中走り回っている。驚いたのは運河には進入禁止や一方通行があること。
実は中学2年生まで「ヴェネチア」と「ベニス」とは別の都市だと思っていた。どちらも同じと判ったのは、地理の試験で僕は「ベニス」と書いて赤丸をもらい。秀才の日俣君は以前からそれを知っていて「ヴェネチア」で赤丸だったから。序でに「フィレンツェ」と「フロォレンス」も同じなのだと日俣君は教えてくれました。

鉄棒にぶら下がる僕たちの視界には、広い校庭と新緑のポプラが輝いていて、ヒンヤリとした鉄棒の感触は今でも覚えている。夏休みはもうすぐ!日俣君はその後芸術大学に進学。今は有名な美術教室を経営。

世界遺産にて。「エストニア」

”歌の革命”という集会にて。エストニア市民の美しい集い。
「もういいですよ、なんだか随分長く廻しますね‥…この画は‥…」とディレクター。どれ位撮影していただろうか‥…過ぎ去った色々なことを考えていた。

世界遺産にて。「イラン」

イサジュンはロケ車の運転手さん。名前はイサさんで、ジュンは「〜さん」より親しみをこめた呼び方なので「イサちゃん」だろうか。
僕たちは車でテヘランからイスファハーン、ヤズド、再びテヘランという大三角形を走破した。

イサジュンは運転手さん以外に食料係でもあった。竜巻が走り回る砂漠や土漠では潤沢な食料を調達できないし、また食べたいとも思わないのだけれど、僕たちが撮影中に何処からか食べ物を調達してくる。決まってナンとチーズ、野菜と果物だけだけれどこれで十分。
オリーブの木の下に敷かれた絨毯の上で、イサジュンはザクザクと西瓜を切る。西瓜とはなんと瑞々しくおいしい果物だろう。そして熱く甘いチャイが砂漠の乾燥で疲れた精神と身体を解してくれる。
イサジュンは元気だろうか。
西瓜を食べると、ちょっとショーン・コネリーに似た彼のことを想いだす。