その人生で最後に写したのはこのライカM2型だった……
葬儀も終わり、片付けをしていると応接間のテレビの横にこのカメラは置いてあった。巻き取りレバーをさわるとフィルムが装填されていて、カウンターは15枚目で終わっている。試しに現像してみると、確かにフィルムは15枚まで撮影されていた……
父の死んだ日、僕は「松食い虫駆除」の空中散布をするヘリを撮影するために、早朝から堂島にある朝日へリポートを飛び立った。
急旋回を繰り返す散布ヘリをこちらもヘリで追いかけるのは辛かったが、パイロットの操縦もあっていい映像が撮影できた。
その映像は夕方のニュースで、トップ項目で放送されることになったので、父に電話してテレビを見てくれるように伝え、僕は和歌山県に出張した。
旅館に宿直勤務の樺沢デスクから電話があったのは、午前0時を回った深夜だった。
家に帰ると父が眠るように横たわっていて、ほんのりと体温が残っている。分厚い胸を押さえると呼吸するような音がした。まだ生きているような気がして思わず手を握ってみた。大きな父の手だったが握り返すはずもなかった……
現像したフィルムの15枚目以降は透明なフィルムだった……
16枚目に父はどんな写真を写しただろうと思うと、涙が止めどなくあふれてきた。
踏ん張っていた何かが崩れて、僕はオレンジ色の暗室で一人で泣いた。
父の人生で最後に撮影して写真……15枚目に写っていたのは、
僕が撮影したニュース映像が放送されているテレビ画面だった……
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