2009年6月4日木曜日

富士山。

ある番組の撮影で山梨県側から富士山を撮影することになった。

 山梨県の小佐手は父の生まれ育ったところ。
葡萄の丘にある一本松はヨチヨチ歩きの叔母を父がくくりつけて遊んでいたところ。
よじ登って得意になっていた神社の鳥居も辛うじて現存。父が子供の頃には日本中に”普通の悪戯少年”が走り回っていたそうだ。
 山梨県には海がないので新鮮な魚を食べることは余りできなかったのか、福井生まれの母と違ってお寿司や蟹は苦手だったようだ。父の好きな食べ物は「ニシンと茄の煮物」。実は僕も好きなのだ。

 東京の飯田橋で小さな事業を興していた兄を頼って上京したのが16歳の時。雄大な富士山が車窓の枠から消えるまで見ていたという。
 水泳は専ら河で泳いでいたが、海を知らなかった父は兵役で満州に送られたが、その時に輸送船から見た海と大浪には驚いたという。
 その頃、誰でも簡単にはできなかった写真の技術を学校で習得していた父は、軍隊では超優遇されたらしい。当時は偵察に行った地形や、敵情を口頭で報告するのだが、父は敵地の写真を添えて報告したので、中隊長はえらく喜んで司令部に報告したら、今度は中隊ごと優遇され、戦友達も父にたいする扱いは破格だったそうだ。”芸は身を助ける”とはこのこと。

 満州で除隊になった父が舞鶴から大阪経由で東京に帰る時に、夕陽のなかで見た紅い富士は特別の輝きを放っていたという。そんな特別な富士山をもう一度見たのは1945年8月15日だった。復員した兵隊は異口同音にその当時の富士山は特別だったと話す。人の気持ちで風景の見え方は変わるのだろうか。しかしこうも言える。富士山があなた達を見ていのだとも‥…。

 撮影しながら、父の記憶にある富士山を見たいと強く思った。

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